75年前、業火の中爪が剝がれても地面を素手で掘り続けた女性。骸の下にあったものを見た学生は只々涙するしかなかった…

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今から75年前の昭和20(1970)年3月10日、東京は地獄の業火に焼き尽くされます。東京大空襲です。

死者は約10万人といわれる東京大空襲。犠牲者があまりにも多すぎて火葬が間に合わず仮埋葬したそうですが、同じように仮埋葬されたひとりの女性の切ないエピソードがあります。

業火の中爪が剝がれても地面を素手で掘り続けた女性のエピソード

花があったら

75年前、数え19歳の学徒兵だった学徒兵として被災処理に当たっていた須田卓雄さんの体験談です。

昭和20年3月10日の東京大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

永代橋から深川木場方面の死体取り方付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。

午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。 頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変わりはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。 着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。

その人は赤ちゃんを抱えていた。さらに、その下には大きな穴が掘られていた。

母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、爪は一つもなかった。その人はどこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。

私の周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。どの顔も涙で汚れゆがんでいた。一人がそっとその場を離れ、地面にはう破裂したちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。 若い顔がそこに現れた。

ひどい火傷を負いながらも、息のできない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。これはいったいなぜだろう。美しい顔であった。人間の愛を表現する顔であったのか。

だれかがいった。 「花があったらなあーー」あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。私たちは、数え十九才の学徒兵であった。

〈出典:1970年12月29日付朝日新聞掲載より。元学徒兵として被災処理に当たっていた須田卓雄さんの体験談〉

イミシンより引用。

女性が命を失った東京大空襲について

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京都区部に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。

「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)を指す。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。

wikipediaより引用。

迫り来る炎、業火に包まれて死を覚悟した若い母親がせめて我が子だけでも助かって欲しい。

身を呈して炎からわが子を守ろうとした様子が伝わります。子を想う母の愛、母性の究極ともいうべき行為に心を打たれる悲しすぎるエピソードです。

日本にだけではなく、戦争によって世界各地でたくさんのささやかな幸せが奪われ、尊い命が犠牲になりました。

戦争によって市民がいかに犠牲を被るのかを教えてくれる母子の物語。過去の悲惨な体験から学び、戦争の悲惨さを後世に受け継ぐことの大切さについて改めて考えさせられます。

私たちがこの悲惨で忘れてはいけないエピソードを受け継ぎ、次の世代へ伝えなければいけないと思います。

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参考:イミシンwikipedia

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